察する力
まあそれはともかく。
長崎の原爆被害者追悼施設に行ったのだが、いってからよくわかってない家の人たちは、廊下だけが延々と続くここがなんだかここがよくわからなくて失礼な物言いだった。僕は、身内の恥ずかしさに呆れ黙るしかなかった。
短時間コースの廊下から、水と光の柱を見上げた。
下のコースには、柱の間に写真機を構えた別の一般人がいた。ガラス越しに見えた。
後からその場所の「意味」が判った身内の某が「(あなたは)いつも説明不足なんだよ」というので、「いや。逆だ。君たちに察する能力がそんなに無いとは思わなかったよ」と答えた。それで理解はしてくれたようだ。
ほんとうに、察する能力というのは人によってこんなに違うものなのか。展示館と地続きだから、知らないで行くならこんな印象なのかもしれないが、水柱によって手厚く鎮魂をされているこの場所にも、その人たちにも失礼だ。
さてそんな旅行も終わり、水ビジネスの人たちとは適度にダマされる能力も要求される高度なプレイなわけだが、それに応じられないという不器用なところもあるのだが、僕が察する能力にだけは長けているから結局上手くいかないというか下りちゃうというか。カンタンな見分け方なのだが、休みの日に優先順位がたぶん2以降だったら、そもそも恋愛対象にも客筋にもならないだろうよね。そんな今日の午後、土産は無駄になるんじゃないのかな。最後のそれは最初の一文になるわけですが、結局むしり取られるよりも、被害もなく、無駄になるのがお土産一個ならまだいいほうだわな。
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